本書の題名は、フランス語の時制とモダリティに関する総論的な概説書を想起させてしまうかもしれない。しかし、本書の主眼はあくまでも事例研究にあり、フランス語において、時制とモダリティというふたつのカテゴリーが関連しあう諸現象について論ずることを目的とする。フランス語の時制研究にとって、モダリティとのかかわりはもっとも重要な主題のひとつであり、これについて論究してゆくことによって、それぞれの時制に対する理解が格段に深まることは疑いの余地がない。
時制といえば、フランス語学ではもっとも多く研究されている分野のひとつで、厖大な先行研究の蓄積があるばかりでなく、いまも毎年おびただしい論文が書かれている。わたしは、1992年からの大学院生時代、1997年からの特別研究員時代、そして2000年に大学の専任の職についてからもしばらくは、時制はほとんど研究しつくされた分野で、いまさら研究してもみのり多い結果はえられないと思っていた。そして実際、連結辞、証拠性など、どちらかといえば研究者の少ない領域を研究してきた。しかし、2006年、出身校である筑波大学に転任したとき、元同級生でもある英語学研究者、和田尚明さんと同僚になる幸運にめぐまれ、例年5~6回の研究会を共催して議論をするなど、交流を深めるうちに、わたしも時制研究に本格的にとりくむことになった。厳密には、もう少しまえから時制研究にむかう契機はあった。2002年に提出した博士論文で証拠性を対象とし、そのなかで、「他者の言説をあらわす条件法」について研究したときから、動詞論に足をふみ入れてはいた。そして、少しふみ入れたつもりの足が抜けなくなった。いざ研究してみると、時制に関しては、決して研究しつくされているということはなく、自分の目で見ていれば、新たな発言も可能であることがわかってきた。
一方、モダリティについては、それこそ学生のころからずっと関連分野にとりくんできたつもりではあるが、言語の存立をになう発話行為に直結する研究領域であるだけに、無尽ともいうべきひろがりがあり、まさしく、一生のテーマであると考えている。実際、あとに示す科学研究費なども、これまでわたしが研究代表者となった研究課題については、つねに「モダリティ」と名のつく研究題目で申請・受給してきた。いずれも広汎な事例研究に眼目があり、モダリティのさまざまな領域でのあらわれを研究してきたが、そのなかでも、本書の主題となっている時制とのかかわりは、この8年ほどのあいだ、もっとも精力をついやしてきた問題であった。
◇
本書では、そのような研究の一端を示してゆくことになるが、考察の提示にあたっては、既存の特定の理論には依拠しないこととする (ここでいう《理論》とは、たとえばギヨームの心的機構理論、キュリオリの発話操作理論、デュクロの言語内論証理論、フォーコニエのメンタルスペース理論のように、創始者や《教典》をもち、多かれ少なかれ忠実に継承される言説の形態をさす)。もちろん、他の研究と自説との異同を示さなければならない以上、純然たる理論的中立性はのぞむべくもないが、特定のひとつの理論に準拠しつづけることはしなかった。このことにより、理論的前提を共有しない、より多くのひとに参照していただけるのではないかと期待する。ただ、明示的にひとつの理論にくみするかたちでの論述を読みなれたひとにとっては、かえって全体をつらぬく原理が見いだしがたく、対象となる事例に応じて場あたり的な説明をこころみているように見えてしまうかもしれない。しかしわたしは、一見場あたり的なほうが言語の実態にかなっていると思っている。統一的な理論にはおのずから得意分野というものがあり、そこから見て周縁的な事例をなんとか理論内に回収しようとすると、どうしてもしわ寄せがくる。そんなときは、なるべく無理をせずに、それぞれの事象の身のたけに合った説明をしたほうが好ましいように思える。
まとまった説明をあたえうるのは、かぎられた範囲の、たがいに直接関連づけられる諸現象である。それらは各言語のマクロシステムのなかで、それぞれに局所的なミクロシステムを構成している。Nølke (1994) が指摘しているように、言語はおそらく、たがいに異質な多数のミクロシステムがおりなすネットワークとして理解されるべきであろう。本書で提唱するいくつかの説明も、フランス語の各時制がどのようにしてモダリティにかかわるかを局所的に解きあかそうとするものであり、時制のミクロシステムにかかわるものであるといえる。マクロシステムに直接いどむような流儀の (たいてい高度に理論的な) 言語学を否定するつもりはないが、わたしはおもにミクロシステムに興味をいだき、その積み重ねを志向している。(はしがきより)
本書の題名は、フランス語の時制とモダリティに関する総論的な概説書を想起させてしまうかもしれない。しかし、本書の主眼はあくまでも事例研究にあり、フランス語において、時制とモダリティというふたつのカテゴリーが関連しあう諸現象について論ずることを目的とする。フランス語の時制研究にとって、モダリティとのかかわりはもっとも重要な主題のひとつであり、これについて論究してゆくことによって、それぞれの時制に対する理解が格段に深まることは疑いの余地がない。
時制といえば、フランス語学ではもっとも多く研究されている分野のひとつで、厖大な先行研究の蓄積があるばかりでなく、いまも毎年おびただしい論文が書かれている。わたしは、1992年からの大学院生時代、1997年からの特別研究員時代、そして2000年に大学の専任の職についてからもしばらくは、時制はほとんど研究しつくされた分野で、いまさら研究してもみのり多い結果はえられないと思っていた。そして実際、連結辞、証拠性など、どちらかといえば研究者の少ない領域を研究してきた。しかし、2006年、出身校である筑波大学に転任したとき、元同級生でもある英語学研究者、和田尚明さんと同僚になる幸運にめぐまれ、例年5~6回の研究会を共催して議論をするなど、交流を深めるうちに、わたしも時制研究に本格的にとりくむことになった。厳密には、もう少しまえから時制研究にむかう契機はあった。2002年に提出した博士論文で証拠性を対象とし、そのなかで、「他者の言説をあらわす条件法」について研究したときから、動詞論に足をふみ入れてはいた。そして、少しふみ入れたつもりの足が抜けなくなった。いざ研究してみると、時制に関しては、決して研究しつくされているということはなく、自分の目で見ていれば、新たな発言も可能であることがわかってきた。
一方、モダリティについては、それこそ学生のころからずっと関連分野にとりくんできたつもりではあるが、言語の存立をになう発話行為に直結する研究領域であるだけに、無尽ともいうべきひろがりがあり、まさしく、一生のテーマであると考えている。実際、あとに示す科学研究費なども、これまでわたしが研究代表者となった研究課題については、つねに「モダリティ」と名のつく研究題目で申請・受給してきた。いずれも広汎な事例研究に眼目があり、モダリティのさまざまな領域でのあらわれを研究してきたが、そのなかでも、本書の主題となっている時制とのかかわりは、この8年ほどのあいだ、もっとも精力をついやしてきた問題であった。
◇
本書では、そのような研究の一端を示してゆくことになるが、考察の提示にあたっては、既存の特定の理論には依拠しないこととする (ここでいう《理論》とは、たとえばギヨームの心的機構理論、キュリオリの発話操作理論、デュクロの言語内論証理論、フォーコニエのメンタルスペース理論のように、創始者や《教典》をもち、多かれ少なかれ忠実に継承される言説の形態をさす)。もちろん、他の研究と自説との異同を示さなければならない以上、純然たる理論的中立性はのぞむべくもないが、特定のひとつの理論に準拠しつづけることはしなかった。このことにより、理論的前提を共有しない、より多くのひとに参照していただけるのではないかと期待する。ただ、明示的にひとつの理論にくみするかたちでの論述を読みなれたひとにとっては、かえって全体をつらぬく原理が見いだしがたく、対象となる事例に応じて場あたり的な説明をこころみているように見えてしまうかもしれない。しかしわたしは、一見場あたり的なほうが言語の実態にかなっていると思っている。統一的な理論にはおのずから得意分野というものがあり、そこから見て周縁的な事例をなんとか理論内に回収しようとすると、どうしてもしわ寄せがくる。そんなときは、なるべく無理をせずに、それぞれの事象の身のたけに合った説明をしたほうが好ましいように思える。
まとまった説明をあたえうるのは、かぎられた範囲の、たがいに直接関連づけられる諸現象である。それらは各言語のマクロシステムのなかで、それぞれに局所的なミクロシステムを構成している。Nølke (1994) が指摘しているように、言語はおそらく、たがいに異質な多数のミクロシステムがおりなすネットワークとして理解されるべきであろう。本書で提唱するいくつかの説明も、フランス語の各時制がどのようにしてモダリティにかかわるかを局所的に解きあかそうとするものであり、時制のミクロシステムにかかわるものであるといえる。マクロシステムに直接いどむような流儀の (たいてい高度に理論的な) 言語学を否定するつもりはないが、わたしはおもにミクロシステムに興味をいだき、その積み重ねを志向している。(はしがきより)